「プレシャス」は決して特殊な事例ではない
映画「プレシャス」を見た。重い内容だが素晴らしい映画だ。 ニューヨークの低所得層が多く住むハーレムに、福祉に頼って仕事をしない母と住む16歳の少女プレシャス(皮肉にも“貴重”なものを意味する)。父からのレイプ、母からは精神的、肉体的な虐待を幼児期から受け、妊娠のあと転校した特殊学校の教師の助けで少しずつ将来に光を見い出し、家を出て、施設で2人の幼児と共に生きてゆく彼女の人生の断片を描いた映画である。 ショッキングなのは、プレシャスが決して特殊な例ではなく、シカゴ市のどこにもころがっているありふれた例であることだ。シカゴ市の西から南にはアフリカ系アメリカ人達が大勢住むが、現在ギャングの抗争で幼児や少女が撃たれて死亡事故が起きている危険な地区。この辺りの病院でソーシャルワーカーとして働く友人デボラは、「親からレイプされた、と訴える患者が圧倒的に多い」と話してくれた。 また、中学校アート教師の友人シェリルは、「クラスの半分の生徒は学期末には授業に来なくなる。電話をしても家には誰もいないし、連絡がとれない。どこへいったか全く不明」と言う。学校の入り口には金属探知器(銃)がそなえてあり、そこを通って生徒達は毎朝校内に入ってゆく。警官が常時警戒しているが、それでも暴力事件が後を絶たない。貧困層を分散居住させる取組みも
シカゴに限らずアメリカは貧富の差が激しく、地域により貧富の差が明確だ。低所得層の住む地域では、歩道の石は割れたまま、街路樹の緑は少なく、ゴミが至る所に散乱、雑草は伸び放題。 特に、シカゴ市住宅局(C. H. A. =Chicago Housing Authority) により、1950年代に多く建設された低所得向け公共賃貸住宅の団地式アパート群は、麻薬の売買や暴力事件が頻発し、映画「プレシャス」の環境そのものである。C. H. A. は団地式をやめて平屋(タウンハウス)形式に改めたり、立地場所を富裕層の住宅地近辺に振り分けて貧困層の孤立緩和を図ったり、貧困層を一カ所に集中させずに入居者を中間層と混ぜる、など、現在もさまざまな試みを続けている。 例えば、コンドミニアムの一部を中間層に廉価で販売、残りの部分を低所得層に貸す、というプロジェクト。果たして中間所得層が貧困層と共生するかと疑問視されたが、蓋をあけてみると、市が提供した住宅価格が低いせいか、多くの中間層が買ったときく。中間層としては、同物件の立地が都心に近く、将来値上がりが望めるという実利的な読みで購入したのかもしれないが。住宅困窮者と家主を政府が取り結ぶ「セクション8」プログラム
現在、賃貸マーケットは雇用率の低さと連動して低迷を続けており、家主は借り手を探すのにひと苦労だが、ここに借り手を探す心配無用の方法がある。それは全米規模のH.U.D. (U.S. Department of Housing and Urban Development) が組織している「セクション8」というプログラムに参加することだ。セクション8プログラムとは、住居に関し、誰に対しても公平な機会を与えるべきだというH.U.D. の主旨により、住まいが必要だが経済的に困難な借り手と彼等を受け入れる家主とを政府がとり結ぶというもの。これは全米規模のプログラムではあるが、実際は傘下にある地方行政、シカゴではシカゴ市住宅局(C. H. A. =Chicago Housing Authority) が管轄している。広告費無料、滞納の心配いらず、で家主は安心?
セクション8プログラムの家主になるには、賃貸に供せる建物を所有し、要望があればセクション8の基準に沿って必要な検査や改造をする心づもりがあれば充分である。 セクション8事務所から建物についての審査(インスペクション)があり、パスすると家主はリースを作成して借り手を受け入れる。家主にとって、役所側が無料で幾つかのサイトに賃貸の広告をしてくれるのは特典だが、そうするまでもなく、借りたい人は山ほどおり、まず空室になることはないということだ。 借り手が収入の30%を家賃として払い、残りは役所がきちんと払うために家賃滞納の心配もない。部屋を荒らしたり家賃を踏み倒すような借り手は役所側で退去させるので、常に一定水準の借り手を得ることができる(www.section8programs.com)。課題もあるが、「とにかくやってみよう!」の精神
アパートを借りたい低所得者世帯は、自分の税申告書類などを揃えてセクション8に応募する。認定されると、受け入れ先のアパートが決まるのを待つ。入居が決まったら収入の30%を家賃として支払って住む、というシステム。 ところがセクション8の賃貸申し込みは、C. H. A. では現在3万家族が順番待ちだそうで、数年先まで一杯(www.ihda.org)。 現在のマーケット状況を考えれば、一体この需要と供給の不均衡はどうしたことだろうか? 考えられるのは、HUD (U.S. Department of Housing and Urban Development) の審査や建物の監督が厳しく、家賃の価格設定もやや安め、家主側から値上げは簡単にできないし借り手を選べない、などなど。賃貸ビジネスに対して役所に口をはさんで欲しくない家主が多いのも事実だ。 それにしても、アメリカは封建制度の歴史がない新しい国だからか、誰でもが生きる権利を声高に主張する。多くの社会問題が山積みされており深い影の部分もあるけれど、そこに光を当てようとする人々も決して少なくない。 映画「プレシャス」のアフリカ系アメリカ人俳優、原作者、監督もその一部だろう。多くの人々が何とか解決法を見い出そうと努力している。「ともかくやってみよう!」という積極性が、光をさらに明るくしている。
Akemi Nakano Cohn
jackemi@rcn.com
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コーン 明美
横浜生まれ。多摩美術大学デザイン学科卒業。1985年米国へ留学。ルイス・アンド・クラーク・カレッジで美術史・比較文化社会学を学ぶ。
89年クランブルック・アカデミー・オブ・アート(ミシガン州)にてファイバーアート修士課程修了。
Evanston Art Center専任講師およびアーティストとして活躍中。日米で展覧会や受注制作を行なっている。
アメリカの大衆文化と移民問題に特に関心が深い。音楽家の夫と共にシカゴなどでアパート経営もしている。
シカゴ市在住。